あまりにもすさまじい体験だったので、書き記しておこうと思う。
11/23の祝日に、友人に連れられてふらふらと さいたま国際芸術祭の開催地である大宮へと行った。
メイン会場に17時近くになりつつ到着し、2000円かよーたけえなって思いながら入った。
5000円以上の価値、いや、もっとすごい体験ができた。
虚像か、実像か。
ホンモノか、パチモンか。
どこまでが仕組まれた、設計されたものか。
そこにいる人は「どっちだ?」
そんな錯覚が覚えられ、
どこまでツクラレタものなのか、その境目が曖昧になる。
「え、どこまでが、本当?」
そう思わされた時点である意味、もう術中にある、というか。
解釈
おそらく、実物のシアター跡を利用した、超巨大なインスタレーション。
みるもの、歩く場所全てで感じ取れるようになっている。
スタッフも、そこにいる(ようにみえる)人も、全てが設計の上にのっているようにみえる。
ある意味、嘘であり、本当でもある。
今生きている場所にも、実は同様のことが言えるのではないか?
ものの見方であったりに投げかけられるアートである。
これは、パフォーマーとそうでないものの差が曖昧になる仕掛けを展開するもので、その実態の有無自体が観客に委ねられる。
『〝すべてを見ることができない芸術祭であること〞を積極的に仕掛けていきたい。(目 [mé])』用意されたものでない『本当の〝気づき〞や〝体験〞には、観客がそれを見逃してしまう可能性が不可欠』とする本芸術祭。いつ来場しても同じ体験がキープされているのではなく、あえて観客が〝見逃す〞機会を多くつくることによって、そこで出会った体験の固有性を裏付ける。いつ、どこで、誰と、どんな状態でそれを体験をしたか。その日の天候、下車した駅、歩んだルート、ふとしたきっかけで目に止まった景色に至るまで。『何気ない経験の数々を、いつもより少しだけ積極的に見つめることで、誰にも奪えないような固有の鑑賞体験につながっていく』そんな状況が生まれる芸術祭を目指し、65日間さいたまに展開される。
この書いてあることがある意味全てで、それがこんなカタチで表現されていることにおどろきを隠せない。
実際の体験断片
- 寝てた男の人は、どっちだ?起きたようにみえた
- スタッフ全然こえかけてくれない
- ん、この盆栽は?
- なんか絵途中になってない?
- 清掃員、なにこれ
- 行き止まりやん
- なんか、水?水面のインスタレーション?こんなもんか
- 窓から入るん、すご
- あれ?なんか自然に入ったけど、よく考えたらすごい導線
- 自然に、非常階段にいってた?!
- ヘルメットの人、今思ったらそんなんおるわけないやん
- 外を眺める清掃員の不気味さ
- スタッフから感じる視線、違和感
- 楽屋のメシは?
- 区切り、がどこか
- ななめに区切る
- 迷路みたいでどこやw
- 出口やから戻れないっぽい
- ことによって2回いくと、窓ガラス割れていることに気が付く
- どうやっておいたんだこのコーヒー
- 時間ない!
- 椅子はずしてるやん
フレームというフィルター
今目の前にある景色は、一体なになのか?
視点の問題か、色眼鏡か。
お客であるゲストでさえも、インスタレーションなのか。
活かしたいこと
この体験値は、計り知れないものがあるように思う。
誘導、導線もそうだし、
でも、「えっ、すご」というこのびっくりした体験。
その設計力、投げかけ。
自分が何かをつくるとき、このインパクト、熱量はいれたいし、
愛だなと思った。